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思わず口に(出す|入れる) [kotoba]



ある辞書でfellatioに「『フェラチオ』とは発音しない」という注記を入れようとした先生がいて、編集部に止められたという逸話を思い出した。


オクトーバーフェストについての発見 [kotoba]



「オクトーバーフェスト」と称するイベントが日本でも近年けっこう開催されるようになっていて、それが全然10月じゃないのが不思議だった。でも本家ミュンヘンのオクトーバーフェストも10月じゃなくて9月からなのか!

あと、このAFPの記事では「バイエルン」という表記なのに、写真のキャプションでは「ババリア」となっているのが興味深かった。以前知り合いのドイツ人は、「日本ではたいていの固有名詞は英語読みになるのに、バイエルンは英語風のババリアを使うことがあまりなくてドイツ語からきたバイエルンになることが多い。おもしろい」と言っていたので印象に残っている。昔はけっこう「ババリア」とも言っていたと思うけどね。

忘年会の苦い思い出 [kotoba]

実は今年、自分が幹事役の忘年会を一つ飛ばしてしまった。というか、誰かほかの人を幹事に指名して任せればよかったんだけど、その人となかなか連絡が取れないでいるうちに予約の時期を逃してしまって場所を確保できなかったのだ……不覚。日にちが先に決まっていて、その週の前半に泊まりがけの出張が入っていて疲労が予想されたので、自分が出席すること自体あまり気に進まなかったというのもあるけど。何軒かフームーで調べて予約にトライはしてみたんだけど、いったんは受け付けられるけれども人数も多くて結局ダメだった。というわけで、今年の忘年会はこれから苦い記憶とともに思い返すことになるだろうと思う。「忘年会支援金100万円」なんて企画があるのにもう少し早く気がついていて、すばやく行動に移していれば、と今更思っても後の祭りである。


「写真提供:ホットペッパー FooMoo」

「激怒」 [kotoba]


「山岸教授の英語サロン」7月30日の項で、石原都知事がたかだか語気荒く言ったぐらいのことを言い表すのに「激怒」を使うのはおかしいという話が出ていた。たしかにその通りだが、石原知事に対しても失礼かどうかは別に考えなくていいだろう。あの人自身も失礼な言動を多々繰り返している人だし。それよりも、そうやって不正確におおげさな言葉を使うことは、その言葉を受け取る人に対する敬意が欠けていることの表れだと思うので、そっちのほうをぼく個人としては強調しておきたい。

同じように、マスコミ関係者の最近の用語法でおかしいと思うのがある。「号泣」だ。島田紳助の事件あたりから目立ってきた気がするが、ワイドショー番組の内容紹介なんかで「号泣会見」なんて出ていて、うわ記者会見で号泣するなんていくら芝居とはいえ恥ずかしいなあと思っていると、実はただ涙を流していただけだったりする。

号泣とは大声を上げて泣くことだと思っていたが、定義が変わったのか、新しい用法が出てきたのかと不安になってくるんだよな。

もしかしたらこいつが元凶か。

号泣する準備はできていた

号泣する準備はできていた


敬語など [kotoba]


文化庁がまた日本語の使われ方を調査して発表した。いつも思うんだけど、こんなことを国の機関が調べてどうしようというのだろう。今のところブロガーにネタを提供する以上の意義を感じないんだけど。文化庁に所属する研究員もいると思うんだけど、大学あるいは民間の研究者に任せておけばいいじゃないか。

年長者が若年層よりも誤用を犯しているというのはなかなか興味深い結果だが、それよりも「汚名挽回」が相変わらず非標準と規定されているのにちょっとがっかりした。『問題な日本語』ISBN:4469221686では、これは誤用ではないという説が披露されていて、目をひらかされた思いがしたから。「劣勢を挽回する」のように、挽回の目的語は取り戻す対象とは限らず、回復する前の状態を表す語もくることができるという論理である。説得力がある。こういうのも日本語におけるコロケーションの研究が進めば精緻化されてくるだろう。

もう一つこれに関連しての感想としては、けっこう敬語が乱れているんだなということ。おれカネ先生が橋本治を引いて書かれているように、現代では「敬意を表すこと」を目的とする敬語の使用機会は確かに減っていると思う。それも原因の一つには違いないけど、学校で敬語がちゃんと教えられていないというのも大きいんじゃないか。

古語において敬語の機能は「敬意を表す」だけじゃなかった。用言を補助して文意を明確にする役割ももっていた。

これはぼくが中学から高校にかけて古典を教わったD先生の薫陶の賜物なのだが、尊敬語・謙譲語・丁寧語という分類は、敬語の機能を十分に表していない。いわゆる尊敬語は主体尊敬(動作の主体に対する敬意を表す)、謙譲語は客体尊敬(動作を受ける側に対する敬意を表す)、丁寧語は対者尊敬(話している相手に対する敬意を表す)と考えればよい。少なくとも学校文法の段階ではこれで十分だと思う(ウィキペディアの敬語の項には何やら専門的な説明があるが)。「謙譲語」を、話者がへりくだるものではなく、動作を受ける側に対する敬意を表すものととらえることがポイント。

「申される」という言い回しは、「申す」が謙譲語=客体尊敬、「れる」は尊敬語=主体尊敬であると考えればそれ単独では間違いとは言い切れないが、「部長が私たちに申された」という使い方は「私たち」に対する敬意を表すことになるからおかしいわけだ。古語では「申し給ふ」というフレーズがよく出てくるが、話者にとって「言う」主体も「言われる」客体もともに敬意を表す必要がある立場の人だから、こういう言い方をしなければならないのである。

要するに、用言にくっついている助動詞や助詞などが、敬語という形を借りて、主語をある程度限定する機能も持っているから、主語を表面的に省略することもできたのである。

先生はこういう説を、この用例は源氏物語にはいくつ出てくるとか出てこないといった根拠と共に示してくれて、今思えば非常に恵まれていた。日本語の論理性を英語の文法を学ぶのと同じ感覚でつかむことができてありがたかった。だから間違った敬語を使っている人を見ると、ああちゃんとした国語教育を受けられなかったんだなあと思う。「ちゃんとした」というと語弊があるから、「論理的な」とか「すっきりした」と言った方がいいかな。日本語教育ももっと論理的にやってもらいたいものだ。


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